歴史的建造物

明治学院礼拝堂(白金チャペル)

建設年
1916(大正5)年
設計者
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
建設様式
イギリス・ゴシック様式
構 造
煉瓦造、一部鉄筋コンクリート造
規 模
2階建 延床面積 553.61平方メートル
文化財登録
1989(平成元) 年 港区指定有形文化財に指定
2002(平成14)年 
東京都「特に景観上重要な歴史的建造物等」に指定

日本に数多くの建物を残したW.M.ヴォーリズの設計により1916(大正5)年に竣工したこの礼拝堂は、ヴォーリズ自身の結婚式に使われたことからもよく知られる名建築。学院のキリスト教主義教育のシンボルとして、当初から同じ場所に立ち続けている。
元来は長方形だったが、学院の発展に伴い収容人数を増やすため1931(昭和6)年に両袖の増築工事が行われ、空から見ると十字架の形をした現在の姿になった。耐震性が不十分とされたことから、2006(平成18)年から2年をかけて壁の耐震補強、構造的に不安な2階席の撤去、正面講壇の復原等の全面的な保存修理工事を行った。現在の収容人数は最大600人ほどである。
また1966(昭和41)年に他の学校に先駆けてパイプオルガンが設置されたが、前述保存修理工事に合わせてオルガンの更新も行うこととなり、オランダのヘンク・ファン=エーケン氏に発注した新オルガンが2009(平成21)年10月に設置された。このオルガンの特徴は、いったん失われた17-18世紀のヨーロッパの工法を復活、再現したところにあり、このような工法で作られたものとしては世界で4台目、日本では初めてという貴重なもの。その「バッハの時代の音色」は専門家からも高い評価を得ている。

 

明治学院礼拝堂(白金チャペル)のパイプオルガンについて

 

明治学院歴史資料館サイト

明治学院礼拝堂(白金チャペル)

第20回BELCA賞を受賞しました。

明治学院礼拝堂は、第20回BELCA賞(主宰:公益社団法人ロングライフビル推進協会 平成23年2月9日公表)をロングライフ部門で受賞しました。
(BELCAは、公益社団法人ロングライフビル推進協会の英訳名 Building and Equipment Long-life Cycle Association の略称です)
BELCA賞は、良好な建築ストックの形成に寄与することを目的とする優良既存建築物の表彰制度で、ロングライフ部門とリフォーム部門から設けられています。ロングライフ部門は「建築物のロングライフを考慮した適切な設計のもとに建設され、長年にわたり継続的に維持保全を実施した、特に優秀な建築物」を選考対象とするものです。
選考コメントは、「所有者である明治学院の文化財保存・活用の強い意思が示されており、地域の住民にも愛されるこの礼拝堂が、変わることの無い歴史的・文化的景観を維持することで、ロングライフ部門に相応しい建築であり続けることを確信するものである」と締め括られています。

明治学院インブリー館

建設年
1889(明治22)年頃
設計者
不詳
建設様式
アメリカ住宅様式
構 造
木造(屋根:銅板一文字葺)
規 模
地上2階 延床面積301.30平方メートル
文化財登録
1998(平成10)年 国の重要文化財に指定
2002(平成14)年 
東京都「特に景観上重要な歴史的建造物等」に指定

明治学院が白金に開校した当時、教鞭をとる宣教師たちのために建てられた4棟の宣教師館のうちの1つがインブリー館で、1889(明治22)年頃に、当時のアメリカ木造住宅の様式を取り入れて建築された。ここに長く住んだW.インブリー博士の名にちなんでインブリー館と呼ばれている。都内に残る宣教師館で最古のものであり、日本国内においても最初期の建築物である。
この建物の外部は、下見板張りと言われる外壁仕上げで、特に軒に近いあたりで手の込んだ張り方になっているが、これはシングルスタイルという当時のアメリカ木造住宅のデザインを持ち込もうとしたためではないかと思われる。
また、建物の内部は、部屋ごとに異なるデザインの寄木板張りの床で、一階の部屋は白い漆喰壁とワニス塗の落ち着いた雰囲気に、2階の部屋は黄色い漆喰壁と雲母紙張り天井の華やかなものになっている。
宣教師館としての役割を終えた後もさまざまな用途に利用され、1964(昭和39)年には、国道1号線の拡幅のために現在地に曳屋された。老朽化が進んだことから、学院は1995(平成7)年から2年がかりで全面的な保存修理工事を行い、これにより創建当初の姿をほぼ取り戻した。

 

明治学院歴史資料館サイト

インブリー館

明治学院記念館

建設年
1890(明治23)年
設計者
ヘンリー・モーア・ランディス(宣教師)と推定
建設様式
アメリカ・ネオゴシック様式
構 造
煉瓦造 一部木造(屋根:銅板一文字葺)
規 模
地上2階 延床面積516.09平方メートル
文化財登録
1979(昭和54)年 港区指定有形文化財に指定
2002(平成14)年 
東京都「特に景観上重要な歴史的建造物等」に指定

入り口に1890(明治23)年の竣工年を示す文字が刻まれているこの建物は、アメリカ人宣教師H.M.ランディス教授の設計によると言われている。当時アメリカで流行したネオゴシック様式の総赤煉瓦、フランス瓦葺の2階建てで、中には神学部の教室・教授室と学院の図書館が置かれた。
竣工当時在籍していた島崎藤村は、小説『桜の実の熟する時』の中で「まだペンキの香のする階段を上って行って2階の部屋へ出ると、そこに沢山並べた書架がある。・・・・書架で囲はれた明るい窓のところには小さな机が置いてある。そこへも捨吉は好きな書物を借りていって腰掛けた・・・・」と、この建物の中の自身の姿を描いている。
その後、1894(明治27)年の地震で大破したため2階が木造に改築され、現在の煉瓦と木造との連繋構造が美しい建物となった。さらに、近くの建物からの類焼や関東大震災による被災で、尖塔などを何回か修復した経緯もある。1964(昭和39)年には国道1号線の拡幅のため現在地に曳屋され、今なお小チャペル、明治学院歴史資料館(展示室)、会議室、事務室などに活用されている。

 

明治学院歴史資料館サイト

記念館

明治学院ライシャワー記念館(ライシャワー館)【明治学院中学校・東村山高等学校 校地】

建設年
1965(昭和40)年
設計者
不詳
構 造
木造亜鉛メッキ鋼板葺2階建て
規 模
床面積 1階 243.80㎡ 2階 213.02㎡
文化財登録
1995(平成6)年 東村山市「東村山30景」に選定
※東村山市が市制30周年を記念して市内各所の「心を和ませ安らぐことのできる風景」や「東村山らしさを醸し出す行事の情景」など、市民の推薦による30景を選定した。

アメリカの長老派教会から日本に派遣されたA.K.ライシャワー博士は比較宗教学の碩学で、日本の宗教について深い研究を積んだ。博士は1905年から24年間、港区白金台の明治学院構内の宣教師館を住居として、学院生の教育に当たった。
1910(明治43)年、博士夫妻に次男が生まれる。後に駐日大使として、1961(昭和36)年より5年間、日米国交に尽力するE.O.ライシャワー博士である。彼は16歳の時までこの宣教師館で幼少年時代を送り、帰国後オハイオ州オーバリン大学を卒業、ハーバード大学の教授に任ぜられ、極東アジア問題の世界的権威となった。
博士は大使として来日した際、明治学院を訪れて、その誕生の家を眺め礼拝堂の背後に立つ楠の大樹の下に立って、少年時代に幹に刻んだE.R.の文字が樹の成長とともに大きくなり、残っているのを懐かしんだという。
この宣教師館は港区白金台の高等学校校舎建築に際して取り壊されたため、1965(昭和40)年、現在の東村山校地にライシャワー記念館として建築された。
明治学院は1965(昭和40)年3月15日ライシャワー館の完成を記念して、建堂及び献堂の式典を挙行した。この式典には大使も臨席している。
その後1995(平成7)年、東村山市市制30周年を記念した「東村山30景」に選定され、地域に親しまれる明治時代の洋風建築となっている。

 

ライシャワー記念館は2010年、建物の維持・保全のため改修を行いました。

明治学院中学東村山高等学校校長 和田 道雄
明治学院の中でライシャワー館ほど多目的に使われた建物はないのではないでしょうか。
1964年、高等学校(白金)の第1期校舎建設の際に、ライシャワー館が解体されることになり、その翌年である1965年に武藤学院長(当時)の発案で東村山に移設されることになりました。
その際、保健室(現「明治学院サービス・ショップ」)、図書館(現「会議室」)、そして東村山高校のH組とB組が2階(現「第2会議室」と「校長室」)に割り当てられ教室として用いられました。
また、1966年に明治学院中学校が白金から東村山に移転すると、この年から中学校寮として使われ始めたのです。この頃の寮は「生活と学習と良心の訓練の場である」とされ、家庭的な温かな雰囲気の中にも厳しい躾と学びがなされたことが「明治学院百年史」に綴られています。
その後も音楽室や書道室としても使われることがあり、実に多用途に用いられてきた結果、45年を経た今、移設当初の姿が徐々に失われてしまったことは否めないこととなりました。
そこで今回、白蟻の被害を食い止める意味もあり、できるだけ移設当初の姿に戻す改修作業に着手することとなり1学期終了時までに完成の運びとなりました。また、2010(平成22)年はE.O.ライシャワー博士生誕100年を記念する年ですので、この改修は大変意味深いものとなりました。
このライシャワー館で父母と共に過ごした16年間を省みて、E.O.ライシャワー博士は『準縄は楽しき地に落ちたり』(教文館刊)の中で「私は少年時代を振り返ってみて、父と母が、仕事と余暇の間に、偉大な哲学的真理に対する関心と卑近な人間関係との間に、また大切な日本の教育事業と我が子に対する配慮との間に、りっぱな均衡を保っていたことに気付く。私にとって、父母と共にした生活とは、二人の風変りな人間との生活ではなく、健全な、安定した、円熟した精神の持ち主との生活であった」と述べておられます。そんな家族の生活が、皆さんがライシャワー館に入られた時に肌で感じとることができたら素敵だなと思います。
※「ライシャワー館改修」(明治学院中学東村山高等学校校報第145号・2010年7月16日)より抜粋・再構成しました。