理事長/学院長メッセージ

明治学院創立200年に向けて

青本理事長明治学院は、2013年、ヘボン塾創設以来、150年の節目の年を迎えました。多くの記念行事が企画され実施されました。また『明治学院百五十年史』(本編・主題編二巻)を編纂し、ヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士の『和英語林集成』の復刻版を刊行いたしました。明治学院の歴史を通じて明治維新以来の日本の中・高等教育を振り返る大変貴重な経験であり、また明治学院を広く国民の皆様に知っていただくいい機会であったと思います。

 2014年からは、創立200年に向けての新たなスタートであります。50年先の明治学院はどういう姿をしているでしょうか?私は時々その姿を想像します。私たちが基盤とし、その維持と発展を目指すキリスト教精神に基づく教育は堅持して行かなければなりません。教育に携わる教職員は入れ替わっているでしょうが、創設以来堅持してきた教育の理念とチャペルを中心とするキャンパス、またそこに息づく静穏な雰囲気は今に変わらず残されていることでしょう。

 また私は時々思います。『教育とはなんだろうか?』最近、特に高等教育を中心にWebサイトでの教育、つまり、MOOCs(Massive Open Online Courses)が話題になっています。米国の有名大学が始めたもので、Web上での学習です。自分の都合のいい時間に、自分の好きな分野を、しかも質の高い授業が無料で受けられるという画期的教育方法です。単に学生を対象にしたものではなく、広く社会人をも念頭に置いた教育でありますし、受講者が一定の水準をクリアーすれば、大学卒業と同等の修了認定が与えられると言われています。学問を修めるために高い授業料を払って私立高校や私立大学に通う必要はないのではないか?既に日本のトップクラスの国立大学でもMOOCsの導入を検討していると聞きます。おそらく、10~20年後にはMOOCsあるいはこれに類似するICTを利用した高等教育はさらに普及していることでしょう。そのような時代において「高等学校の教育はどうあるべきか」「大学は何の為に存在するのか」、キャンパスというハードの要素を含め、「教育」の意味をその原点から確認する必要に迫られることは間違いありません。

 自然科学、人文・社会科学、いずれの分野でも教育の質はますます高度化を求められ、細分化していきます。専門分野が細分化されるに従い、専門家でも一寸した分野の違いで互いに研究している内容が理解できなくなってきつつあります。そこには『疎外』と『分離』の力が働きます。その行きつくところは、社会の常識さえ体得できない偏った人間を育てる結果にならないでしょうか?そうした知識の追求だけが「教育」なのでしょうか?明治学院の中等・高等教育は決してそうであってはならないと思っています。「教育」は、優れて、幅広い学際を越えた知識を総合した『人間としての成熟』を支援していく働きであり、学校は、そのためにキャンパスを持ち、生徒・学生と教職員が共に切磋琢磨する『人間の交わる場』でなければなりません。人が集まり、教職員や先輩・同輩と共に議論し、共に学び、絆を固くしていく、人として成長していく場であると思います。

 これからの50年間は、これまでの50年間に比べて質的に異なる時代を迎えます。しかし、どのような変化が待ち構えているにしても、私たち教育に携わる者たちは、その変化を鋭く認識すると同時に、明治学院の教育の原点に絶えず立ち戻って『21世紀の世界市民を育てる』教育を目指す事を心がけてまいります。キリスト教の精神に基づき、中・高・大の一貫教育を掲げる明治学院が、この社会に存在する意味を決して忘れてはいけないと思っています。私たちは、世界の皆さま方と共に進化し、成長してまいる決意であります。

理事長  青本 健作 (あおもと けんさく)
青本 健作


 

塩気のある塩とは -明治学院創立200年に向けて-

小暮修也学院長新約聖書: ルカによる福音書14章34~35節
「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

 物質は、他の物と出会うと、様々に変化します。
 例えば、「生たまご」は、熱湯の中に入れて、しばらくすると固まって「ゆでたまご」となります。液体が熱湯と出会うと固体になるのです。他方、「氷」を熱湯の中に入れると、「水」になります。固体が熱湯と出会うと液体になるのです。人間も、同じ言葉や文書に出会っても、その素材が異なれば受け止め方は様々であることに気がつきます。
 それでは、「塩」はどうなのでしょうか、「塩」を熱湯の中に入れると、「塩水」になります。固体が熱湯と出会うと液体になりますが、形は溶けていても、全体に塩味がつきます。自らの形はなくなりますが、全体に影響を与えるのです。

 ところで、「塩」の役割とは何でしょうか。昔から三つの役割があったといわれています。
 一つ目は、「塩」には昔から保存する性質、腐敗を防ぐ性質がありました。そこから、旧約聖書の時代には、「塩」は神と人との契約の永遠性を表す象徴とされました。旧約聖書のレビ記2章13節(旧約164頁)には、「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。」と記されています。
 ユダヤ教では、塩は神の贈り物とされ、金曜の晩に安息日用のパンを塩にひたして、神と民との契約を守ることを表したと言われています。キリスト教のカトリックでは、塩は不滅、永遠性だけでなく、真実や知恵とも結びついていると言われます。「塩気がなくなる」と訳した言葉は、知識や知恵が欠落した状態を表しているということです。
 日本では、相撲で塩をまきますが、これは「豊穣や豊漁を占う神聖な場を清める」ことから塩をまく、といわれ、劇の舞台でも塩をまいて悪霊を払いのけて神聖な場にするといわれています。
 二つ目は、「塩」は調味料として用いられてきました。「塩」は、紀元前6000年には中国の湖で採られていたと言われています。紀元前800年には、塩の作り方や交易について記した文献が存在しているということです。食事には塩が必要であることから、塩は食事を含めた深い交流、交わりを示すとも考えられました。
 三つ目は、「塩」は畑に用いられました。良い作物を育てやすくするために用いられたということです。「塩」は、ある種の野菜の肥料として用いられたり、土地から雑草を除いたり、堆肥が作られる速度を遅くするために使われたともいわれています。

 それでは、今日、私たちはこの言葉から何を学んだらよいのでしょうか。
「塩」は小さな粒です。しかし、自分の形はなくなっても、全体に大きな影響を与えます。そのような小さなものであっても、大きな働きを持っているということです。この聖書のすぐ後に、「見失った一匹の羊」のたとえ、「一枚の無くした銀貨」のたとえ、「放蕩息子」のたとえ、というように、小さなものに目をとめる、見つけることの大切さを説いています。
 また、世の中が堕落していくときに、自らも堕落していくのではなく、この世の腐敗や自らの腐敗を防ぎ、知識や知恵を持って、この世を後の人々のために保ち、守る働きを担うことが大切であるということを示しているのではないでしょうか。
 こうしてみると、自分の形がなくなっても他者のために仕えること、この世や自らの腐敗を防ぎ人々を守ることを示しているこの聖書の箇所は、明治学院の精神と深く関連していると考えます。
「地の塩として生きること」を、改めて心に受け止めたいと思うのです。

学院長  小暮 修也 (こぐれ しゅうや)
小暮 修也